雑食的に書く

聞いた話について考えたこと、タイトルのまんま

ザリガニワークスさんのボアダムスピンとトムソーヤの話

ザリガニワークスというおもしろい会社があります。

会社というよりもデザインユニットと言うほうが近いかもしれません。

武笠太郎さんと坂本嘉種さんというお二人が

面白いふざけた商品を作っていらっしゃいます。

有名なところでいくと、

子供の夢をくだきちらすコレジャナイロボとかを作っている方々です。

 

 

ボアダムスピン

さてそんな方々のボアダムスピンというプロダクトがあります。

キャンプファイヤーで募集されているんですが、これめっちゃ面白いです。

 

何が面白いか。

モノ自体はぜんぜん面白いものではありません。

バカサミットで実物を見る機会があったのですが、

そのもの自体は紐の先に木の玉とおもりのついただけの、

振り回してあそぶおもちゃです。

 

コンセプトが面白いんです。

モノ自体は全然面白くないんですが、

面白く遊んでいるところをみせつけてうらやましがらせる

という遊び方をしようというコンセプト。

 

どういうことでしょうか。

ここで名作トム・ソーヤが例として出されていました。

 

 

 

トムはある日おばさんに塀のペンキ塗りをまかされてしまう。

季節は夏。炎天下で塀にペンキをぬるのは苦痛でしかない。

トムは早く泳ぎに行きたい。…。

と、ここでトムはあるアイデアを思いつきます。

「ペンキ塗りをうらやましがらせればいいのだ!」

トムは非常に楽しそうにペンキ塗りを始めます。

鼻歌なんかを歌ったりして。

ぺちゃぺちゃぺちゃ。

ふんふんふんふん。

そうすると、通りかかった友達はなぜだか

トムのやっているペンキ塗りがうらやましく感じられるのです。

「トム!かわってくれよ!」

こうしてトムは照りつける太陽の下でペンキ塗りをしなくてもよくなったのです。

 

 

 

 

 

なるほど、そういうコンセプトなのか、と、

その時は非常に面白く感じました。

モノ自体ではなく遊ぶことに価値があるって面白いです。

 

しかし、あることをおもいだしました。

トムはそのお話の中で、

「ペンキ塗りを手に入りにくいものにして」いるんです。

それ自体がうらやましがられるものであるのを前提に、

トムは「ペンキ塗りをする機会が希少である」ということまで、

その売りにしているのです。

 

その点、ボアダムスピンはそれができません。

体験を売ればよかったペンキ塗りとは違い、

ボアダムスピン自体が売れなければいけないからです!笑

 

ボアダムスピンみる

うらやましい

ボアダムスピン売れる

みんなが持ったらうらやましくない

ってことになり…。笑

 

 

というわけで

ボアダムスピンがキャンプファイヤーで成功すればいいと思います笑

 

 

追記

ザリガニワークスの坂本さん、天才かなーと思いました。

しゃべりがうまくないのかな、という話し方をされるのですが、

頭の中では物事がとても速く回っていて、これを言葉にしようとすると

頭の中と口とでタイムラグが起きてなかなかうまくしゃべれないというか。

そういう方を、

チームラボの猪子寿之さんしか実際に見たことがなかったので

なんだかドキドキしました。

 

 

 

 

 

 

 

 

SEOに対する考え方の違いについて

PARTYなどで活躍されている原野守弘さんが以前(4/7)ご自身のtwitter

Googleで上の方に表示されやすくするみたいなやつ。SEO。あれは、ステマの一種じゃないでしょうか?

と、ツイートされていました。

なるほどと思いました。

 

そもそもgoogleのアルゴリズムてのは、

いいものをうえのほうにっていうことで作られたと思うので、

そのアルゴリズムを解読してサイトを上位に表示させようとするSEO

私にもステマみたいなものに感じられました。

 

これを仮に勝手に広告側のメンタリティとします笑

 

 

で、後日、

技術側の人の話を聞いてみたいなと思って、

WEBの広告技術を扱う会社に就職しているお友達を飲みに誘って聞いてみました。

 

 

 

ーねえねえこの前原野守弘さんがこんなツイートをされていたんだけど。

「いや、私はステマだとは思わない。

googleのアルゴリズムを解読して上位に表示されるようになるということは

googleの哲学を理解して、それにそってサイト作りが行えているということで、

それはいいサイトになっているはずだ」

 

なるほど。

で、これを仮に技術側のメンタリティとする、と。笑

 

 

これって相容れないものですかね。

お友達はもともと原野さんの存在を私に教えてくれた人なので、

どっちかって言うと広告的なメンタリティ(仮)よりの考えになるのかなと期待したのですが、WEB技術を扱っていろいろやっている友人からして、

受け入れられない考え方だったようです。

 

こういう対立するような考え方があると

議論が生まれてすごくいいんじゃないかと思います。

というふんわりとした終わり方です。

 

以上、検索結果の上位はSEOスパムだらけ, とお嘆きのあなた, MillionShortを試してみよう

というTechCrunchの記事を見て思い出したので書いてみました。

キュレーション系サービスにびっくりした

キュレーション系のサービスが面白くてびっくりしました。

情報を集めてくれるキュレーションサービス、

いままで主にvingowというサービスを使っていたのですが

Crowsnestというサービスを友達に教えてもらいました。

ったらそれが面白かったです。

 

それぞれの機能をざっくりまとめて言うと、

vingow

・タグを設定

・そのタグに該当する記事をネット上のあらゆる場所から集めてくれる

Crowsnest

twitterと連携

twitterで自分がフォローしているユーザーたちの、つぶやいたりRTしたリンクのうち多いものをセレクト、表示

・毎朝ツイートされた数が多いものをメールでニュースレターとして送ってくれる。

 

 

って感じです。

vingowは自分でタグを設定する必要がありますが、

Crowsnestは設定する必要がありません。

設定する必要がない!!

 

 

ぐうたらな私には非常に喜ばしいことです。

何もしなくても朝にはニュースレターがメールボックスに…すごい!

新聞かっ!

いや、新聞よりすごいです。

自分の興味があるであろうことだけを集めてくれるので。

 

現在は招待制限定でのリリースらしいです。

招待制とは言えメールアドレスを登録してやればできます。

 

すげーと思いました。

新聞とかのメディアがだんだんいらなくなってしまうのも

しょうがないことなのかなと思い。

情報収集の方法がだんだんと変わってきているんですね。

ほう。

レッテル張りによる思考停止

先日こんなものを書きましたが、

もうひとつこれに関していやだなと思っていることがあって、

それが表題にある「レッテル張りによる思考停止」です。

 

レッテル張りによる思考停止

というのは、たとえば「ゆとり世代」です。

ゆとり世代というレッテルを張ることによって、

彼らがどんな人種であるかを定義し、

実際どんなパーソナリティーを持っているのかを考えることをしません。

 

てかそもそもゆとり教育とは、

従来の詰め込み知識教育を体験重視型の教育へとシフトしようという動きであり、

根性がどうとかそういうのとは関係ないように思います。

しかし、「ゆとり」という言葉の持つイメージにより、

「のんびりゆったり育てられただるだるな人たち」というようなイメージをもたれ、

最近言われる「ゆとりだめ」コールにつながっているんじゃないかと思います。

ゆとり世代の俺かわいそうです。

 

 

というような、イメージのミスリードをひき起こしてみたり、

レッテル張りによる思考停止って怖いなと思います。

ほかにはどんなことがあるかなー。

AR三兄弟の企画書、拡張現実の世界

日経BP社から出ている

AR三兄弟の企画書」を読みました。

 

まずARが何かという話なのですが、ウィキでもみていただくとわかるとおり、

拡張現実のことです。

そして著者のAR三兄弟(ウィキ)ですが、簡単に言うとデザインユニット、

いやわかりません。

長男の川田十夢さんはもともとミシンの会社にいたとかで、

なんでそんな人がARなんてやってんすかと思っていたんですが、

なぞはすべて解けた。詳しくは本を。

 

私はこの本を読むまで、ARってARマーカーを使ってウェブ亀とかで表現されるもの、

それに限るものだと思っていました。

しかし、

それに限るものではない!ということを知って目からうろこうろこうろこでした。

 

現実とは、言い換えれば目に見えているこの世界であって、

それを拡張するものならば、聴覚でも、触角でも、なんでもありだというのです。

びっくりした~

 

 

最近はgoogle先生のARメガネが話題だったりしますが、

ARって意外と私たちの身近にありました。

 

しっかしいろんなアイデアにあふれた本でした。VRとかARGの話とかもあって。

人間の生活を豊かにしてゆくものがあふれていました、この本には。

「クリックの省略」とか。

なんかステマみたいになってしまいました、うっかり。

ピザ屋の効率化

近所にテイクアウト中心のピザ屋「ピッツァスタンド ヴェスピーナ」ができて、

オープン記念で一枚380円だっていうから並んできました。

味自体はドミノとかそこらのとは違ってもっちりとした生地で

これはこれでいいねみたいな感じで。

 

で、残念だったのがそのオペレーションです。

 

所要時間の嘘

15人くらい並んでいて、最後尾についたんですが、後ろに並んでいたおばあちゃんが「どれくらい並びますか?」って店長さんぽい人に聞いていたんですが、

店長さんぽいひとは「25分くらいですね~」っておっしゃっていたのですが、

結局一時間ほど並んでいました。

これ以前にも営業してるので、

どれくらい並ぶことになるのかというのはわかっていると思うので残念でした。

品切れの非表示

フライヤーには11種類のピザが乗っていて、

そのうちの一つを目当てに並んでいたのですが、

それは品切れ(ほかにも3種類)になっていて、それを事前に知ることができませんでした。

 

こんなことで満足度を下げてしまったらもったいないですよねー

 

解決?

じゃあどうすればいいのかなと思ったんですが、

品切れはとりあえずちゃんと表示してもらうこととして笑、

所要時間の嘘もまあほんとのことを言ってもらうとして、

所要時間を客各人が計算できるようにしてやればいいんじゃないかと思います。

焼き立てというのを味わってほしいらしかったので、

電話予約はタイムラグやらなんやらを生んでしまうのでとりあえず除外。

 

ピザは一枚どれくらいで焼きあがるというのが計算しやすいものかと思います。

焼くのに1分のもあれば20分のものもあるとは聞いたことがありません。

というわけで、一枚に5分かかるとしたら、

それを店頭に書いちゃえばいいんじゃないかと思います。

それと、窯で同時に焼ける枚数も書いてしまえばいいんじゃないかと思います。

そうすれば、客は今何人並んでいて、

窯で焼けるのは何枚という情報をもとに待ち時間を計算でき、

列に並ぶか並ばないかを選択するようになるんじゃないかと思います。

 

 

 

以上の考えは、客が満足することを念頭におくならば必要じゃないかと思います。

並ばせることによって注目されることもきっとあると思いますが、

それによって酔ってくるのは普段そこに来る人たちじゃないと思います。

普段来る人たちはその列にかなりの時間がかかってしまうとわかっているので

並ばないでしょう。

 

これからも「普段使いのピザ屋」を掲げたいのであれば、

この辺に住んでいる人を取り込むことをしなければなりません。

なら、下手に並ばせることによって、客の不満足度を上げたりとか

しないのがいいのかなと思います。

 

どうなってゆくのか非常に楽しみです。

おちついたころにまたいってみようかな。

シュールという言葉が嫌い、その理由

私はシュールという言葉が好きではありません。むしろ嫌いなくらいです。

「シュールを使わない運動」を勝手に一人で展開しているくらいです。

 

なぜ嫌いかというと、最近多用されすぎている、と思うからです。

とくに若い人(私自身の周囲にいる友人たちもそう)は

なにを見てもすぐにシュールという気がします。

 

 

 

ちょっとおかしいものをみて「シュール」、ちょっと過激なものをみて「シュール」。

 

 

 

これは表現の幅を非常に狭めるとともに、その対象に対しても「シュール」のレッテルを張ってしまうことによって解釈の幅を狭めてしまっている、と私は思います。

シュールという言葉を使わなければ、対象に対する表現はもっと自由にうまれます。

その解釈の幅は広がり、オリジナルな解釈、表現が増えるのではないでしょうか。

 

 

 

若干話はとびますが

 

昔の日本人はすごいと思います。

色一つにしたって様々な表現を使ってきました。

あお、とひとくちに言ったって、

縹色、露草色、瑠璃色、納戸色、 薄青、浅葱、薄浅葱、青磁色、甕覗、 青鈍、褐色

など、沢山の表現が使われていました。

しかし現在なかなか使われることはありません。

 

でもまあ、これは仕方のないことかと思います。

あまりにも沢山表現があるなかから選ぶとなると非常に大変なので、

効率化みたいなことが働いたんだと思います。

効率化は人間が生きてゆくなかで大切なことですよね。

おとなの頭が堅いと言われるのはこの効率化のせいだと何かで読んだことがありますが、

それは物事を効率よく進めていくための道筋を作ったということで、

毎日道なき道を進んで行かなければならないとなったら

相当のエネルギーが必要となるので良いことだと思ってます。

 

 

しかし、

何もかもに同じ名前(シュール)を付けてしまうのはもうひとつ意味があります。

(あると思います)

それは思考の停止です。

 

これがいちばん嫌いです。

何を見てもシュールとしか言わない、そこには、

ほとんど考えずにシュールという言葉を口にしていて、

自分の中での咀嚼、そんなものが存在していない、そんなように思えます。

考えることを止めてしまうことは非常に怖いことです。

 

シュールという言葉だけを口にし、特に自分の感想も持たずに解釈を止めてしまう。

非常に残念なことだと思います。

 

シュールという言葉が使われる頻度がどんどん下がっていけばいいのにと思う今日この頃です。