シュールという言葉が嫌い、その理由
私はシュールという言葉が好きではありません。むしろ嫌いなくらいです。
「シュールを使わない運動」を勝手に一人で展開しているくらいです。
なぜ嫌いかというと、最近多用されすぎている、と思うからです。
とくに若い人(私自身の周囲にいる友人たちもそう)は
なにを見てもすぐにシュールという気がします。
ちょっとおかしいものをみて「シュール」、ちょっと過激なものをみて「シュール」。
これは表現の幅を非常に狭めるとともに、その対象に対しても「シュール」のレッテルを張ってしまうことによって解釈の幅を狭めてしまっている、と私は思います。
シュールという言葉を使わなければ、対象に対する表現はもっと自由にうまれます。
その解釈の幅は広がり、オリジナルな解釈、表現が増えるのではないでしょうか。
若干話はとびますが
昔の日本人はすごいと思います。
色一つにしたって様々な表現を使ってきました。
あお、とひとくちに言ったって、
縹色、露草色、瑠璃色、納戸色、 薄青、浅葱、薄浅葱、青磁色、甕覗、 青鈍、褐色
など、沢山の表現が使われていました。
しかし現在なかなか使われることはありません。
でもまあ、これは仕方のないことかと思います。
あまりにも沢山表現があるなかから選ぶとなると非常に大変なので、
効率化みたいなことが働いたんだと思います。
効率化は人間が生きてゆくなかで大切なことですよね。
おとなの頭が堅いと言われるのはこの効率化のせいだと何かで読んだことがありますが、
それは物事を効率よく進めていくための道筋を作ったということで、
毎日道なき道を進んで行かなければならないとなったら
相当のエネルギーが必要となるので良いことだと思ってます。
しかし、
何もかもに同じ名前(シュール)を付けてしまうのはもうひとつ意味があります。
(あると思います)
それは思考の停止です。
これがいちばん嫌いです。
何を見てもシュールとしか言わない、そこには、
ほとんど考えずにシュールという言葉を口にしていて、
自分の中での咀嚼、そんなものが存在していない、そんなように思えます。
考えることを止めてしまうことは非常に怖いことです。
シュールという言葉だけを口にし、特に自分の感想も持たずに解釈を止めてしまう。
非常に残念なことだと思います。
シュールという言葉が使われる頻度がどんどん下がっていけばいいのにと思う今日この頃です。